先日の写真展に、三輪中学校の生徒さんが4人見に来てくれました。その流れで、先日の中学校の総合学習の時間に、ロール紙の現物をもってお邪魔をしました。そのときの話です。
3年生のクラスの生徒37名に対して、第二いぶきのことや写真展の意図を私の方からしたあとです。
「実はみんなに伝えたいことがあります」と担任の先生が話し始められました。続いての話に私はすこしびっくりしました。「先生の一番の宝物は息子です。奥さんにはもうしわけないけれども息子が一番の宝物です。その息子は、障害をもっています。みんなは自閉症というのを聞いたことがあると思う。いつか話そうとおもっていたんだけども、いい機会だからみんなに話しておこうと思います。去年の3年生には卒業前の3月に話しました。・・・・・・写真展を家族で見にいきました。息子は自閉症なので、ゆっくりと写真を見ることはできなくて、走り回っていたんだけれども、先生は、先生の息子もいつかはこういうところに通うことになるのだろうなあと思って見てていました。・・・・・」びっくりした反面、私はなんとも複雑な気持ちでその話を聞いていました。ひとつは、思い切って話をした先生の胸のうちについて。もうひとつは、それを十分に受け止めきれない少なくない生徒の顔つきについて。ひとことでいってしまうと、「えっ?これでいいんだろうか」という感じです。もっと生徒の気持ちを集中させてから伝える必要があるぐらい大切な話、そして先生の思いのこもった話だと思ったのでした。わからないでもないのです。生徒のうちの4人が写真展を見に来てくれました。その感想を先生も読んでいて、その写真の現物が目の前にあって、北川が写真の説明やいぶきの話、障害のある人たちの話を簡単ながらもした後で、「実はね・・・・」と切り出すというのは、流れ的には十分理解できるのです。でも残念ながら生徒がそこまで気持ちを高めることができていなかった。そういう点で非常になんというか、惜しかったというか、残念というかもったいないという気持ちでその風景を見ていました。
でも、おそらくこういうことなのかもしれません。「こういうこと」は、それだけ、個人の感性に触れるかどうかが分かれるテーマなのかもしれません。写真展のあと誰かと話していたことです。「この写真を見て、本当にすごいねと感じる人もいれば、ふ~ん、大きい写真だね、だけですんでしまう人もたくさんいるんだろうね」被写体の仲間を知っているとか知らないとか、福祉に関心があるとかないとかいうことと、感性に届くかどうかということはまったく別の問題なのかもしれません。また、心にすぐ届く人もいれば、時間をかけてゆっくり自らの心に浸透させていく人もいるのでしょう。
先生の話は、非常にもったいないタイミングだったとは思います。でも何年も教壇に立っている先生がそれを考えないはずも、感じていないはずはありません。教職にない北川の感じる以上のものを感じ、またそれをどうもっていくかは私の思いもしないレベルで考えておられるのかもしれません。話が届いたかどうか、いや生徒が感じるレベルが先生が期待したところまでいっていたのかどうか・・・・それは先生自身が判断されたのだと思います。
実は私自身は、先生のご子息が障害をもっていることは予めきいて知っていました。話が終わったあと、先生に話し掛けました。「先生、よかったんですか?」先生は静かに答えられました「なかなか誤解されたり、先入観をもたれたりするのが怖くて、どう伝えようかずっと思っていたんです。でもいい機会でした」
小学校1年生の息子さんを学校へ送ってから出勤されることも多いとか。今回はうまく文章にまとまらないのが正直なところです。変に評価めいた文章になってしまうことをうしろめたくも思いながら、その一方で教師として、親父として、とてもあたたかくひたむきに考えておられることを感じさせる先生のおだやかな顔が心に残っています。