Collaboration vol.14

パキスタンの地の無念
その後の話を直接聞くことが出来ないというのはなんともさびしいものだと思います。
しかもそれが一種の喪失感を伴うとき、ぼんやりとしたとりかえしのつかない気持ちに包まれる自分を、どこか他人事のように見ているのは、自分の気持ちを整理できるまで崩れないようにするための本能的な防御反応なのかもしれません。
 彼と出会ったのは18年前の学生時代のこと。2000人の学生が住む大学の宿舎のお祭り「やどかり祭」の実行委員仲間でした。飲んで騒いで笑って泣いて。そんな中で飲むとすぐに顔が真っ赤になってニコニコして、でも眼がランランとしている彼がいました。彼と最後に話したのは今から10年前の1995年2月から4月の間のことでした。「大丈夫やったか?」「おお!」携帯電話をもつ人はまだまだ少ない頃。当時私のいた会社の京都の独身寮の公衆電話から、被災地の神戸東灘に住む彼と電話で話したのが、彼、楢原覚との最後の会話になりました。震災直後、会社の支援物資をトラックに積んで2日だけ現地に入った私。一方、被災地の中で懸命な活動をし、そこから新たな自分の生きる道を切り開いていった彼。その後の彼の生き方を知ったのは、ここ数日の新聞紙上を通してのことでした。
 
彼がその人生の最後の場面に至るまでの様々な場面が、テレビのニュースで語られるのを、ボーッと見つづける連休でした。ふっと心の中に入ってきたコメントは、一時帰国中にまたパキスタンに戻りたいと彼が話していたということ。本当に彼がパキスタンが好きだったと語られていたことでした。「そうだよな、それだけ魅せられて飛び込んでいったんだよな」「自分の人生かけられるものみつけて、それを実行したんだよな」。私はきっと新聞の記事やテレビのニュースの中に、「彼がどんな強い思いを持っていたのだろう、どんな情熱をもっていたのだろう」という、直接きくことができなかった、そしてこれからもきくことがかなわない問いの答えを探していたのだと思います。
 あまりに現実味がなくて、悲しみはまだ湧いてこないのです。あえて表現するなら「無念」という言葉でしょうか。ですが、友としての彼を誇りに思い、そして、俺も負けていられない、彼の生き方をまた俺自身のエネルギーにして俺もがんばるから・・・・そんな気持ちがじんわりと湧いてきはじめたところです。
 ボクがどうしていくことが彼への弔いになるのか、少し時間をかけて考えてみたいと思っています。少なくとも、「もっと魅せられて、もっと情熱持って、もっと人生かけたくなるようないぶきにしていきたい」ということ。一日一日を大切にしながら。
自身の気持ちの整理に本欄をつかうこと、お許しください。