Collaboration vol.12

久しぶりになってしまいました。いろいろご迷惑をおかけしました。これからも本紙はもちろん続けていくのでよろしくお願いします。
 さて突然ですが・・・道端を歩いていると突然私の横に車が停まりました。夜の8時ぐらいのことです。運転席から中年の男性が首を出し、「こんなところをひとりでなんで歩いてるんだ。危ないから早く帰れ。とにかく危ないぞ」と叫ぶとそのまま走っていきました。時は15年前の8月。場所はニューオーリンズの街角でした。未曾有のハリケーン被害に見舞われている現地の街をテレビの画面に見ながらふとそんなことを思い出しました。
 被害にあった方々の姿。着の身着のままではありますが、こぎれいなシャツにサングラスをかけて被害を訴えています。別に違和感を覚えたり、ひいている訳ではもちろんありません。冷房のきいたこの事務室でそんなことを考えるほどおめでたい人間ではないつもりです。でも、一瞬、年末にインドネシアの津波の被害をうけた方々がはだしでボロボロのシャツをはおって泣き崩れていた姿と「比較」している自分がいました。そこからいろいろな「情景」が思い浮かんできました。。私の生まれ育った神戸の町での10年前のできごとではどうだったろう?紛争やまぬイラクの街角でかけまわっているこどもたち、アフリカをはじめとする貧しい国々でおなかだけがぷっくりふくらんでいるこどもたちは・・・? そこからやっぱり頭はいぶきのことにつながっていきました。東京日比谷公会堂にあつまった障害のある方々とその関係者の訴え。これから起こりうることに不安を口にしているいぶきをはじめとする仲間や家族、そして私たち。これは世の中からみたらどう映るのだろうか。
 どこか距離感がある表現になってしまうのは不本意ですが、こんなことを感じました。貧困をはじめとする社会的背景の違いはもちろんあります。不幸や不運や大変さの大小の比較はナンセンスです。その身になって初めて感じることを端から想像で「測ってレベル分け」することもナンセンスなのだと思います。当事者でない人にできることは、当事者の人の声にしっかり耳を傾けること。そしてその声に相対的ではない、絶対的な価値を見出していくことなのかもしれません。「アフリカで飢えに苦しむ人に比べれば、支援費の1割負担なんて楽なもんじゃない」という客観的・相対的な評価は「当事者でない人」がするべきことではないのでしょう。一方「当事者」にとっては自らの身に起こっている事実を、上記のように客観的に把握して気持ちを整理していくことも、思いっきり主観的に「飢えに苦しむ人がいることは知っている。でも私は私で大変なんだ」と声をあげていくことも、当然許されてしかるべきだと思います。
 その人その人の声や訴えにしっかり耳を傾けていくことを、その有言・無言をとわず、またそのレベルを問わずに大切にしていける心が私からなくなりませんように。
 乱文ご容赦ください。最後にひとこと、自立支援法では私たちは「当事者」です。