2024年7月に、社会福祉法人いぶき福祉会は30周年を迎えます。
これを機に、25年前からいぶきを知る北川が、コラムをはじめてみようと思います。
30周年を迎えるにあたってのおもいとは? つくりたい未来とは? 大切にしたい考え方とは? いろいろな角度から語っていきます。
第1回は、いぶき福祉会が、どのような経緯や思いから誕生したのか、当時27歳の北川は、なぜいぶきに魅かれたのか。いぶきと自身の節目について、お話します。
人は一人では何もできない。誰かといることで頑張れる
あっという間に30周年という感覚です。いぶき福祉会は、来年の7月に法人設立30周年を迎えます。僕自身は、いぶきの仲間と出会って25年以上になります。いぶきでは、利用者さんのことを「仲間」と呼びます。一緒に過ごし、仕事をする仲間という意味を込めて。
この間、ずっと走り続けてきました。それは、頑張り続けないと、人や場は退化していくと思うからなんです。もし僕が手を抜いて、退化してしまったとして、その結果が自分だけに返ってくるのだとしたら、それは構いません。でも、障害のある仲間たちにしわよせがいく状況は一番起こしたくないんです。
人間って、何かを超えていくには、一人ではできなくて、誰かといることで頑張れる。少なくとも僕はそうで、“みんなで”ということに意味がある。人間とは、そういう、関係あっての存在じゃないかなと思っています。
最近、いぶきの活動を「クリエイティブですね」と評価していただくことがありました。でも、結果的にクリエイティブになっていたんでしょうね。そう考えるほうが、しっくりきます。放っておくとネガティブになることが嫌で、手を抜かずにやり続けてきたことが、気がつけばクリエイティブな行動につながっていた。人も場も退化しないために変化し続けるには、いぶき単体ではできなくて、いぶき以外の方たちとの連携・協働が欠かせませんでした。その中で、たくさんのクリエイティブな方々に出会うことができたのだと思います。
生きやすい未来づくりの一歩は、小さな作業所から
いぶき福祉会のスタート時をご存じない方も多くいらっしゃるかもしれません。いぶきは、1994年7月8日に社会福祉法人化しました。
いぶきには前身がありまして、1983年にオープンした、小さな小さな「日曜作業所」がそれです。支援学校が、当時は養護学校と呼ばれていたのですが、そこの親御さんや先生方が抱いていたこと、つまり「高等部を卒業した後の行き場がない、なんとかしてほしい」という要望から生まれたんですね。
作業所で活動していく中で、彼らの未来について考えるようになります。場所・人材・仕組みを整えて、彼らが生きやすい環境をつくりたい。同じような生きづらさを抱えている人たちが、他にもいるはずだ、と。そこから市民運動や募金活動に発展し、民間の社会福祉法人である「いぶき福祉会」が誕生しました。岐阜県で、知的障害の分野では初となる社会福祉法人でした。当時、ものすごい熱量から生まれた、画期的な出来事だったと聞いています。
会社員から社会福祉の道へ
ところで、僕は岐阜の出身ではありません。京都生まれの神戸育ちで、1998年にいぶき福祉会に入るまで、岐阜とは縁もゆかりもありませんでした。
大学では心理学を学んでいました。当時は、心理学の専門職である「家庭裁判所調査官」になりたかったんです。家庭事件や少年事件の当事者・関係者と話をして調査し、改善策を検討する仕事です。大学卒業後も会社員として働きながら、その国家試験に挑戦していました。これは、人々をエンパワーする仕事なんですね。またお話しますが、「エンパワリング」という概念が、僕自身が大事にしているテーマだということに、ここ数年の学びを通じて気が付きました。
さて、1995年のこと。つまり、いぶきができた年に僕は会社を辞め、国家試験の勉強に専念します。1995年は、自分にとってひとつのエポックでした。阪神大震災があり、ふるさとが神戸なので考えることも多かったですね。そして、その後、年齢制限により専門職をあきらめざるを得なかったのでした。
そこですることもなくなったので、父親のしていた社会福祉の仕事を手伝うことになりました。これが、僕の福祉の出発点です。こうした領域にたずさわるなら社会福祉士の資格があったほうがいいかと、名古屋にある専門学校の夜間コースへ通うことになりました。この専門学校に張り出されていて見つけたのが、いぶき福祉会の求人票でした。
神戸育ちの僕が、岐阜のいぶきに魅かれた4つの理由
数ある社会福祉法人の中から、いぶきを選んだのには、4つの理由がありました。
まずは、「(横山文夫)理事長が弁護士」だったこと。社会福祉法人の理事長というと、障害をもつお子さんをもつ親御さんが代表をするケースが非常に多いものです。いぶきは、弁護士というニュートラルな立場の方が参加しているオープンな組織で、視点が内向きにならないのではないかと思いました。
次に、いぶきには「父親の会」があったことです。当時は、障害のあるお子さんの面倒をみるのは母親というのが主流でした。その頃に、父親が施設の運営・管理に参加する仕組みがあったことが、非常に珍しいことでした。
さらに「実践紀要検討会」にも魅かれました。「紀要」とは、研究機関の定期刊行物のこと。こんなふうに、いぶきでは、利用者ごとの課題ですとか、解決へのアプローチ、あるいは諸々の改善点や、実践したが残された課題などを、支援員一人ひとりがまとめていきます。個々の経験則だけに陥らないよう、研究者からの講評も受けていました。このように、実践の積み重ねを大事にして、日々の課題を様々な人たちとの関わりの中で解決していく仕組みが、当時からあったんです。
ちなみに、かつては指導員と呼ばれていた福祉職も、いまは支援員と呼ぶように変わりました。今では、障害を持つ本人の願いや、どうありたいかということを含めて、対話を重ねながら、よりよい支援のあり方を検討していくようになっています。現場の支援員全員が、今も毎年レポートを書きますが、ここまでしっかりやるところは、あまり聞いたことがありません。いぶきの職員の皆さんは、よく頑張っているなと思っています。
さて、もうひとつ大きな決め手になったのは、「障害のあるご本人の支援だけではなく、地域をつくっていく」ということが書かれていたことでした。障害のある人の暮らしを支えるというのは、その人たちが安心して暮らせる“地域をつくること”だ、と。
これらを見たときに、他の社会福祉法人とは違うものを、いぶきに感じました。接点も何もなく、岐阜を訪れたことさえなかったのですが、ここを選んで飛び込みました。27歳の年でした。
第2回へつづく…